昨日、私が劇場からホテルへ戻ろうとした時のことが頭をよぎった。
観客が入場しはじめていて、みなドレスアップしている。そのためか劇場前は華やかな雰囲気となっていた。
そして手提げバッグの中に花束を用意している人も多く見かけたのだ。花束は必須アイテムのように
思えてきた。明日はまず、花屋を見つけよう。
観客の年齢層は幅広く、20代後半から80代くらいだったが、中心は40〜60代のようだ。
中でも夫婦と思われる人たちが多く、スマートな身のこなしで奥さんをエスコートしている男性の姿は
素敵でかっこいいと思った。まるで、何かの授賞式に招かれた客で、ここが大きな劇場であるかのように
振る舞っているようにさえ見える。そしてそれが実にさまになっている。80歳ぐらいのおじいさんが
70歳ぐらいのおばあさんをエスコートしている姿は微笑ましく、いくつになってもダンディズムは
失わないという雰囲気のおじいさんにエールを送りたいとさえ思った。
日常習慣の違いのせいはもちろんあるが、日本人はこうはいかないだろう。
アメリカではごくあたり前の風景なのだろうけれど…。
開演30分前、午後7時30分。劇場窓口で予約しておいたチケットを受け取る。物事がたんたんと
進む感じがする。
チケットにはC-110と印字されて、「ついてる、前の方だ。」と頭の中で小さくガッツポーズ。
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舞台の明りは落としてあるが、客席全体をいくぶん明るくしてあるので舞台の手前にあるセットは見えている
。
中央には、ガタピシと音が聞こえてきそうな木製の丸テーブルと椅子。
そのうしろに、崩れたビルのガレキのようなコンクリートの塊が室内のセットの中で異彩を放っている。
その右には大きな柱があり、さらに右奥から舞台手前の方へすそ広がりになった階段がある。
舞台の左手には、古ぼけて音が出るのか心配したくなるようなスタンドピアノに丸椅子。
舞台はけっこう奥行きがありそうで、奥のスペースは階段状になっているようだが暗くてはっきりしない…。
こうやって客観的に観察しながら、高まる気持ちに冷静さをもたせようとしていたら、
開演のアナウンスが入り、客席を照らしていたライトが消された。
いよいよだ。神経を集中し、目を凝らし、耳を澄まして、その瞬間を待った。
Mr.ピータースは真新しい茶色と白のコンビのウイングチップの靴が、いたくお気に入りの様子で
しきりに自慢している。しかし、その靴は歩くたびに、子供用の音のでるサンダルのような
キュッキュッという音を発する。
彼はその音と無邪気に戯れるいたずらっ子のように
中央のテーブルのまわりでステップを踏む。
観客からはクスクスと笑みがもれ、私は適当にリラックスでき、芝居は好調にすべりだしたようだ。
ひとしきり軽妙なステップを踏んでから、彼はどっかと中央の椅子に腰をおろし、帽子と手袋をとるのだが
コートは脱がない。
からだの収まりがしっくりこないのか落ち着かない風である。
クールな不動産屋は腰掛けたピータースを見て、どう見ても廃虚一歩手前の
この店の売り込みにかかる。
ガレキのようなコンクリートの塊は戦争中の空襲のなごりだが、今はこういうのが若者には受けるのだ
とアピールしたり必死であるが、身のこなしはスマートで押し付けがましさはなく、あくまでクールである。
しかし、Mr.ピータースはあまり意に解する風でもなく、「ここでワイフと待ち合わせをしているから。」と
なんだか無頓着である。
そして、彼は視界に入った、廃虚にお似合いの感じのピアノに、おもむろに近づいて弾きはじめる。
懐かしい感じのスタンダードな曲調(あとで『September Song』とわかった)を奏でながら、
郷愁にふけっているようにも見える。
コートを着たままで背中をまるめて弾く姿は哀愁もあるが、刑事コロンボの『黒のエチュード』の1シーンを
彷彿させる。
コロンボがよく口づさむ『ディス・オールド・マン(This Old Man)』だったら…、
と勝手に連想してニヤリとしてしまう。(刑事コロンボのテーマの曲といえる『ディス・オールド・マン』は、
ピーター・フォーク主演の映画『こわれゆく女』の中でも、ピーター・フォークが子供たちとベッドの上で
一緒に口笛を吹くシーンに使われていた曲だった。この映画は彼の作品の中でも、強く印象に
残っているので、ピーター・フォークとこの曲が結びついてしまう。)
最初から舞台の奥の長椅子に腰掛け、登場人物を見据える黒人女性が、実は存在していた。
闇い陰の部分にいて、前半までは一言もしゃべらず、空気と同化し、存在がわかりづらい。
しかし、100キロを超えるのではと思う体格に赤い柄の入った黒い服を着て、ナースキャップを頭に
ちょこんと乗せた姿は異質なだけに印象に残る。
舞台後半で、彼女自身が「いわゆるナースではない。」と言っている。
大局を見つめ、現実を冷静に判断する発言から、形としてのナースではなく、内に秘めるものが
ナースキャップとして象徴的に表現されたのだと私は思った。
そして、彼女はこの舞台の登場人物において、おかれてきた境遇(黒人ゆえに人間性を
否定されたような時代の存在)や現状とは正反対に、多くの病巣をかかえたこの世の中を一番客観的で
広い視野からとらえている人物に思えた。
彼女の言葉には重みがあり、むやみな反論は.ピータースにもできないようだった。
再びMr.ピータースは“What's the subject ?”と自分へ問いかけ、過去と現在の混沌へ
はまってゆく。
際限なく思い出ともつかない過去が
波のように押し寄せる。
実体のない雷鳴が聞こえ身をすくめたり、昔、バナナサンデーが大好きだった頃に思いを馳せたり
(この時、観客の誰もがボリューム満点でおいしそうなバナナサンデーを想像し、生つばをのむ。
アメリカ人は全員バナナサンデー好きに思えたし、私自身もたっぷりのチョコレートがかかった
アイスクリームとバナナとをほおばりたくなった。)
さらに、遠い昔に死んでしまった恋人がピータースの頭をよぎる。
恋人の名はキャシー・メイ。
先程現われたブロンドの美女こそ、キャシー・メイだと気がつく。
現われては消え、消えては現われる彼女によって
現実と虚構の境はますます曖昧になり、キャシー・メイとのスローで熱いダンスシーンで、ピータースの
現実はより不確かになっていく。
そんな空気とは正反対に、小柄なからだを
真っ赤なスーツと真っ赤な帽子でめかしこんだ、はちきれそうな勢いの中年の女性が舞台を
ひっかきまわす。
Mr.ピータースの妻シャルロットである。待ちに待っての登場。
彼女は来るなり勢力的に店内を見て回わり、大発見でもしたかのようにパウダールームから出てくる。
そこはクールな不動産屋が何度もピーアールしていたが、Mr.ピータースは関心すらしめさなかったのに…。
シャルロットは具合の良くない彼女まで巻き込んではしゃぎまわり、そのパウダールームを夢のように
ゴージャスだと誉めたたえる。
そこに住みたくなると表現するほど素敵らしいパウダールームを
この目でみたくて、私はつい、実在しないセットを舞台左手奥に探してしまう。
その間にもピータースの過去の記憶と現実との混乱ぶりは続き、
そのため、ただでさえ自分のおかれた状況に対応できずにいるソングライターの彼は、ピータースに
狂気でも感じるのか、この場から立ち去りたくてしょうがないらしい。
観客から一斉に拍手がおこった。
舞台の上か下か関係なく、この空間にいる人々がみな満足げな表情に見えた。
もちろん、私もその一人だった。
不思議なことに開演前は緊張で張り詰めていたのに、マッサージでほぐれたように軽くなっていた。
舞台の印象も重すぎず、軽すぎず、ちょうどいい緊張と緩和で進行したことが心もからだも
リフレッシュさせてくれた。
そして、プラスちょっぴり「自分を立ち止まって、考える」余裕を与えられたのかもしれない。
すべてがちょうど良いと思える“ここち良さ”に身を置いている、そんな充実感に包まれていた。
私は1時間半の上演時間がすごく短く感じた。 そしてすぐに頭の中でプレイバックしながら、一コマ一コマを焼き付け、ここの空気さえ持ち帰りたいと 思った。
そして観客が舞台を後にしてロビーへ向かう中に、座席があまりにセンターだったために舞台前に
出て行けず、渡しそびれた花束を抱えたままの私がいた。
「この花束だけは渡したいな。渡せるかな。」
そう思いながら人の流れに乗っていた。
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