6月17日午後、チケットエージェントからホテルに電話が入った。最終公演日の21日までにチケットが とれるのは18日の1日分だけで、他の日はSOLD OUTという返事だった。
この公演は40回限定公演となっているので、SOLD OUTが続いて好評でも公演が延長することは ないはずだ。だから、1日分でも貴重なチケットだ。
明日、あさってと2夜連続で舞台を見ることができる。やっとこれで事前の準備が整った。

昨日、私が劇場からホテルへ戻ろうとした時のことが頭をよぎった。
観客が入場しはじめていて、みなドレスアップしている。そのためか劇場前は華やかな雰囲気となっていた。 そして手提げバッグの中に花束を用意している人も多く見かけたのだ。花束は必須アイテムのように 思えてきた。明日はまず、花屋を見つけよう。
観客の年齢層は幅広く、20代後半から80代くらいだったが、中心は40〜60代のようだ。
中でも夫婦と思われる人たちが多く、スマートな身のこなしで奥さんをエスコートしている男性の姿は 素敵でかっこいいと思った。まるで、何かの授賞式に招かれた客で、ここが大きな劇場であるかのように 振る舞っているようにさえ見える。そしてそれが実にさまになっている。80歳ぐらいのおじいさんが 70歳ぐらいのおばあさんをエスコートしている姿は微笑ましく、いくつになってもダンディズムは 失わないという雰囲気のおじいさんにエールを送りたいとさえ思った。
日常習慣の違いのせいはもちろんあるが、日本人はこうはいかないだろう。 アメリカではごくあたり前の風景なのだろうけれど…。


6月18日当日の朝。脳細胞が「俺たちは眠てないんだから、お前も起きろ」と からだに呼びかけているようで、ゆっくりからだを起こし、ベットに腰掛けた。 頭とからだが一致していない感じだった。
ニューヨークに着いてから、時差ボケというより、「遠足の前日、子供がなかなか寝つけない状態が 続いてしまった」という方が適切かもしれない。
ピーター・フォーク・ファン歴24年。振り返ると長いなぁと思う24年。インタビュー記事を読んで 人生観に大きな影響を受けたのは揺れ動く十代青春真っただ中の頃。まさか本人を目の前にすることが あるなんて想像もしなかった。現実を前にして脳細胞は緊張と興奮で張りつめてしまったわけである。
今夜遭遇する現実がこの状態から解き放ってくれることを期待しよう。
熱いコーヒーが舌からノドへ、ノドから胃へとしみわたる。やっとからだに芯が一本通り、 頭とからだの信号が一致した。

開演30分前、午後7時30分。劇場窓口で予約しておいたチケットを受け取る。物事がたんたんと 進む感じがする。
チケットにはC-110と印字されて、「ついてる、前の方だ。」と頭の中で小さくガッツポーズ。

ロビーの右側奥が客席への通路なのか、観客の列ができているのでそちらへ進む。 そこは暗幕で囲まれた小部屋といった感じのスペースになっていて、壁にはアーサー・ミラー作品の 舞台写真が数点展示してあるようだ。
しかし気持ちは壁の向こう側の舞台へ飛んでいて、写真を落ち着いて見ることはできなかった。
列の最後尾へ並んで一歩一歩進み、チケットの半券を係の人に渡して、左手のドアをくぐる。
すぐ目の前は黒い壁で、細い通路が左右伸び、急な階段へと続いていた。
開演前の観客のざわざわとした感じを耳でとらえながら、劇場係員の照らすペンライトに従った。
左側の階段を踏みしめて上がっていくと観客席の最後部最上段へ出て、目の前の視界が広がった。
こじんまりとしてシンプル、座席数は思ったほど多くなく、180席くらいだろうか。空間の広さを感じたのは、 私自身この舞台への期待感のふくらみと、今この場へいる自由に会話を楽しむ観客たちの、 ゆとりをもった明るい表情がつくりだす空気のせいかもしれない。
最前列なら役者に手が届きそうなくらい舞台と客席は接近していて、C-110の席は前から3列目のほぼ中央 。あまりにいい席なので、着席しても落ち着かず、「現実だよね。」と頭の中で自問自答したりしてみた。
振り返って客席を見渡すと、観客でぎっしりと埋め尽くされていて、開演の時を待つばかりとなっていた。

舞台の明りは落としてあるが、客席全体をいくぶん明るくしてあるので舞台の手前にあるセットは見えている 。
中央には、ガタピシと音が聞こえてきそうな木製の丸テーブルと椅子。
そのうしろに、崩れたビルのガレキのようなコンクリートの塊が室内のセットの中で異彩を放っている。
その右には大きな柱があり、さらに右奥から舞台手前の方へすそ広がりになった階段がある。
舞台の左手には、古ぼけて音が出るのか心配したくなるようなスタンドピアノに丸椅子。
舞台はけっこう奥行きがありそうで、奥のスペースは階段状になっているようだが暗くてはっきりしない…。

こうやって客観的に観察しながら、高まる気持ちに冷静さをもたせようとしていたら、 開演のアナウンスが入り、客席を照らしていたライトが消された。
いよいよだ。神経を集中し、目を凝らし、耳を澄まして、その瞬間を待った。


薄明りの中、舞台中央奥の一段高くなったところに男が立っている。
その男は濃いグリーンで玉虫色をしたスリムなモッズ風のスーツに身を包み、 クールな雰囲気を漂わせている。
彼はこの朽ちかけたナイトクラブで、ここを買い取ってくれるであろう人物を待っている不動産屋らしい。
こへ右の階段の上から、中折れソフト帽をかぶり、引きずりそうなくらい重そうに見える グレーのツイードのロングコートを着て、黒い皮手袋をはめた、真冬のいで立ちの初老の男性が登場。
コロンボ刑事が現役を引退し、隠居暮らしが10年も経てばこんな感じかなという風貌で、髪も白髪まじりで 髭もたくわえている。彼の名はピータース、演じるのはピーター・フォーク。
芝居を離れて、役者ピーター・フォークを見ている自分自身を、少し高い視点から冷静に観察している もう一人の自分が存在しているようで不思議な気持ちだった。

Mr.ピータースは真新しい茶色と白のコンビのウイングチップの靴が、いたくお気に入りの様子で しきりに自慢している。しかし、その靴は歩くたびに、子供用の音のでるサンダルのような キュッキュッという音を発する。
彼はその音と無邪気に戯れるいたずらっ子のように 中央のテーブルのまわりでステップを踏む。 観客からはクスクスと笑みがもれ、私は適当にリラックスでき、芝居は好調にすべりだしたようだ。
ひとしきり軽妙なステップを踏んでから、彼はどっかと中央の椅子に腰をおろし、帽子と手袋をとるのだが コートは脱がない。 からだの収まりがしっくりこないのか落ち着かない風である。
クールな不動産屋は腰掛けたピータースを見て、どう見ても廃虚一歩手前の この店の売り込みにかかる。
ガレキのようなコンクリートの塊は戦争中の空襲のなごりだが、今はこういうのが若者には受けるのだ とアピールしたり必死であるが、身のこなしはスマートで押し付けがましさはなく、あくまでクールである。
しかし、Mr.ピータースはあまり意に解する風でもなく、「ここでワイフと待ち合わせをしているから。」と なんだか無頓着である。
そして、彼は視界に入った、廃虚にお似合いの感じのピアノに、おもむろに近づいて弾きはじめる。
懐かしい感じのスタンダードな曲調(あとで『September Song』とわかった)を奏でながら、 郷愁にふけっているようにも見える。
コートを着たままで背中をまるめて弾く姿は哀愁もあるが、刑事コロンボの『黒のエチュード』の1シーンを 彷彿させる。
コロンボがよく口づさむ『ディス・オールド・マン(This Old Man)』だったら…、 と勝手に連想してニヤリとしてしまう。(刑事コロンボのテーマの曲といえる『ディス・オールド・マン』は、 ピーター・フォーク主演の映画『こわれゆく女』の中でも、ピーター・フォークが子供たちとベッドの上で 一緒に口笛を吹くシーンに使われていた曲だった。この映画は彼の作品の中でも、強く印象に 残っているので、ピーター・フォークとこの曲が結びついてしまう。)


Mr.ピータースは元パイロットであったことが、老いて飛行機を飛ばせなくなっても、 彼の過去の栄光であり、現在も彼自身のよりどころになっているようだ。
彼には過去と現在が交錯して、混乱してしまう節がある。 それは、突然にそして度々おこる現象で、彼自身もその混乱の自覚はあるようだがコントロールは 効かないらしい。
その現実とも夢ともつかない状況の中に、突如、透き通るほど白い肌をしたブロンドの美女が現われ、 一瞬、観客も息を呑む。彼女は素肌にシースルーのワンピースを1枚まとっているだけで、それもほとんど 透けていて裸体と同様の状態なのだ。
マリリン・モンローようなの妖艶な空気を漂わせ、踊るような誘うような動きでピータースに戸惑いを与えて、 消えていった。
彼は彼女が誰なのか、過去の記憶をたどっているようだが、思い出せそうで思い出せずに、 さらに混乱を深めているかのようだ。
Mr.ピータースは落ち着かぬまま、あわてて手袋をはめ帰ろうとすると、不動産屋に「奥様(your wife)を お待ちしているんでしょ。」と声をかけられて我にかえり、その場にとどまった。 (このシーンはこの後も何度か登場する)まるで、催眠術を解くキーワードが “wife(ワイフ)”であるかのようで、既婚男性にとって“wife”という言葉は、夢から現実へ 引き戻すための象徴的言葉として登場させているような作者の意図も感じられた。
また、過去と現在の混沌の中で、Mr.ピータースは幾度となく、“What's the subject ?” (問題は何なのか。)と自分自身に問いかけ続ける。
それは自分の人生を模索し、最後にたどりつく答とにつながるのだろうか。


次に階段をかけ降りてきたのは、蛍光きみどりのピチピチTシャツに黒のスリムパンツ、そしてピカピカの 黒い靴をはいた、目と眉毛からせまってくる感じの 濃い顔のマッチョマン。
Mr.ピータースはあの新品の靴をこの男から買ったと言う。 つまり、彼は靴屋なのだ。いったい彼の店にはどんな靴が並んでいるのか…。
彼がここへ来たのは、彼女の浮気現場を押さえようとしていて、それで血相を変えているらしい。
そして、見つからないことにいらついて、「ここには来てない。」という不動産屋やピータースでさえ、 疑っているようだが、しかたなしに店から出て行く。

最初から舞台の奥の長椅子に腰掛け、登場人物を見据える黒人女性が、実は存在していた。
闇い陰の部分にいて、前半までは一言もしゃべらず、空気と同化し、存在がわかりづらい。
しかし、100キロを超えるのではと思う体格に赤い柄の入った黒い服を着て、ナースキャップを頭に ちょこんと乗せた姿は異質なだけに印象に残る。
舞台後半で、彼女自身が「いわゆるナースではない。」と言っている。 大局を見つめ、現実を冷静に判断する発言から、形としてのナースではなく、内に秘めるものが ナースキャップとして象徴的に表現されたのだと私は思った。
そして、彼女はこの舞台の登場人物において、おかれてきた境遇(黒人ゆえに人間性を 否定されたような時代の存在)や現状とは正反対に、多くの病巣をかかえたこの世の中を一番客観的で 広い視野からとらえている人物に思えた。
彼女の言葉には重みがあり、むやみな反論は.ピータースにもできないようだった。

再びMr.ピータースは“What's the subject ?”と自分へ問いかけ、過去と現在の混沌へ はまってゆく。
際限なく思い出ともつかない過去が 波のように押し寄せる。
実体のない雷鳴が聞こえ身をすくめたり、昔、バナナサンデーが大好きだった頃に思いを馳せたり (この時、観客の誰もがボリューム満点でおいしそうなバナナサンデーを想像し、生つばをのむ。 アメリカ人は全員バナナサンデー好きに思えたし、私自身もたっぷりのチョコレートがかかった アイスクリームとバナナとをほおばりたくなった。)
さらに、遠い昔に死んでしまった恋人がピータースの頭をよぎる。 恋人の名はキャシー・メイ。
先程現われたブロンドの美女こそ、キャシー・メイだと気がつく。
現われては消え、消えては現われる彼女によって 現実と虚構の境はますます曖昧になり、キャシー・メイとのスローで熱いダンスシーンで、ピータースの 現実はより不確かになっていく。


若いカップルの登場で空気が変わる。
折れそうなくらいきゃしゃなからだの彼女は具合が悪いらしい。黒いやわらかな素材に小さな花柄の キャミソールに淡いブルーのカーディガン姿がいっそう弱々しさを印象づけている。
彼女は彼に支えられるようにして階段を降りて来た。 歩きまわって疲れて果ててここへやっとたどりついたようだ。
ダンガリーシャツにジーンズというラフな感じの彼は シンガーソングライターだがまだ芽がでていない。 それに彼女は妊娠しているのだが、彼はまだ父親になる自信が持てず、そのことを誰にも言えないでいる。
どこかおどおどした2人。

そんな空気とは正反対に、小柄なからだを 真っ赤なスーツと真っ赤な帽子でめかしこんだ、はちきれそうな勢いの中年の女性が舞台を ひっかきまわす。
Mr.ピータースの妻シャルロットである。待ちに待っての登場。
彼女は来るなり勢力的に店内を見て回わり、大発見でもしたかのようにパウダールームから出てくる。 そこはクールな不動産屋が何度もピーアールしていたが、Mr.ピータースは関心すらしめさなかったのに…。
シャルロットは具合の良くない彼女まで巻き込んではしゃぎまわり、そのパウダールームを夢のように ゴージャスだと誉めたたえる。
そこに住みたくなると表現するほど素敵らしいパウダールームを この目でみたくて、私はつい、実在しないセットを舞台左手奥に探してしまう。
その間にもピータースの過去の記憶と現実との混乱ぶりは続き、 そのため、ただでさえ自分のおかれた状況に対応できずにいるソングライターの彼は、ピータースに 狂気でも感じるのか、この場から立ち去りたくてしょうがないらしい。


舞台は終局へ。
妊婦の彼女の名はローズ、彼女はピータースの話にどんどん引き込まれ同調していき、「そばにいて。」 と素直な気持ちを伝える。 ローズはピータースの娘としての存在になっており、父としてピータースは「そうしてみよう。」と答える。
いつのまにか登場人物は勢ぞろいとなり、各々の人間関係はMr.ピータースを中心に絡みあっていることが わかる。
不動産屋はピータースの死んでしまった弟で、キャシー・メイはピータースの遠い過去の死んでしまった 恋人であると共に派手な靴屋のマッチョマンが探していた女性だった。
マッチョマンは彼女を所有物のように扱い、自尊心を傷つけるような行動にでる。 Mr.ピータースはたまらず、「やめてくれ!」と叫び、劇場に緊張が走る。
ピータースは彼女を守り、抱擁する…。
もつれた糸を解くようにして、Mr.ピータースがたどりついた“What's the subject ?”の答えは?
Mr.ピータースが舞台をしめくくった一言、“Love”につきるだろう。
ごくシンプルな一言だけれども、そこには様々な関係(connections)が存在し、恋人、夫婦、親子、兄弟と 個々をつなぐ愛情、それにもっとグローバルな視野の人間愛も含めて、「立ち止まってもいいから、 ちょっと考え感じてみないか。 Mr.ピータースのように…。」とさりげなく問いかけられた気がした。 そこで舞台は幕を閉じる。

観客から一斉に拍手がおこった。 舞台の上か下か関係なく、この空間にいる人々がみな満足げな表情に見えた。 もちろん、私もその一人だった。
不思議なことに開演前は緊張で張り詰めていたのに、マッサージでほぐれたように軽くなっていた。 舞台の印象も重すぎず、軽すぎず、ちょうどいい緊張と緩和で進行したことが心もからだも リフレッシュさせてくれた。
そして、プラスちょっぴり「自分を立ち止まって、考える」余裕を与えられたのかもしれない。
すべてがちょうど良いと思える“ここち良さ”に身を置いている、そんな充実感に包まれていた。

私は1時間半の上演時間がすごく短く感じた。 そしてすぐに頭の中でプレイバックしながら、一コマ一コマを焼き付け、ここの空気さえ持ち帰りたいと 思った。

(以上が私が感じた舞台の全体像です。私の英語力は乏しいのと、ルポを書くことなど想像すら していなかったので、細かな点や前後関係には自信がないのですが、そこはおお目にみてください。)

そして観客が舞台を後にしてロビーへ向かう中に、座席があまりにセンターだったために舞台前に 出て行けず、渡しそびれた花束を抱えたままの私がいた。
「この花束だけは渡したいな。渡せるかな。」
そう思いながら人の流れに乗っていた。

(イラストも筆者)


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